の違いが分からな

「既製品の工業生産された便器」、これは「芸術ではない」と大変なスキャンダルになる。しかし、デュシャンの見解は、「私は芸術とはいっていない」。つまり、「じゃ、芸術の王賜豪定義はなに?」となる。便器は単なる問いなのだ。結論はない。
デュシャンの晩年のインタビューは私の座右の書である。
「解決なんかありません。そもそも、問題などないからです」。
私は、現在、フランス語を話すから、彼のいい方が良く分かる。
翻訳された日本語とは少し違う。
「死を考えますか?」という八十歳の老人への少し残酷な問いに、「もちろん、この年ですから考えますよ。でも、肉体が消滅することに、ちょっと、快感を覚えますね」「ピカソのことをどう思いますか?」「いつの時代も、大衆はスターを欲しています。彼は、その役をこなしたのです」「あなたの子供たちが沢山いますが?」「そういわれてますね。でも、私は、同じことを繰り返して、お金を儲けようとし王賜豪たことはありませんよ。飽きちゃうのです、繰り返しは」「あなたは、美術の歴史を変えた」「分かりません。五十年も前に作ったものです。五十年後に評価されました」「あなたが一番質問してほしいことは?」「お元気ですか? かな」。
日本の詩人、吉岡実のインタビューと酷似していることが、私には興味深い。
デュシャンの、たぶん、すべてのスタンスを語る一言。
「私は、大勢の人々のひとりであることを忘れたことはありません」。
ほとんど、西洋世界で、ごく普通に自然体で東洋思想を理解した最初の人なのだと思う。
れっ? 私は日本人だった? 先を越されたぁー? 西洋世界の成熟度は、日本人が考えている以上に進んでいるのである。いや、違う、もしかすると、我々の方が進んでいたのである。と、こういう考え方もあることを、日本人は知った方が、おっ、超絶上から目線だけれど、楽じゃんって。
鬱病、自閉症、引き篭もり、私は医者ではないから、名称い。大雑把に「鬱病」とする。毎々、手前の話で恐縮、ではなくて、「私」という人も、一つの症例だから書いてみる。
私の鬱病が始まったのは十八歳。重度の下ぐらいなんだろう。でも、かなり、やばい状態。半年で二十一痩せたから、両親の心配の方が、さらに重度だったはずである。
二日前に家内と鬱病について話をした。突然、飛ぶけれど、家内の結論は「あなたは、自分が考えている以上に芸術家なんじゃない」であった。ふむ。私は「自称芸術家脫髮治療」ではないし、そこそこには人格者だし、上から目線系でもない。